分からないものにであった時の態度
こんばんは。
ほんとマスクが暑い今日この頃っ!!
(※今日はひさしぶりの写経の会でした。)
お釈迦さまは
われ、無量寿仏の光明の威神巍々珠妙なるを説かんに、昼夜一劫すとも、なお尽すともことあたはず
と説かれました。
阿弥陀さまの光のお徳、素晴らしさを一劫とゆう長い間、昼夜通して説いても説いても説き尽くすことができません。
とゆう意味です。
阿弥陀さまは不可称不可説不可思議といわれす。称え尽くすことも、説き尽くすこともできないお方であり、私たちの頭をはるかに超えた存在であるとゆうことです。
お釈迦さまでさえ説きつくせない、どれだけかけても称えつくすことのできない阿弥陀さまのお徳、それはそれはすごいものなのでしょう。
「私の良いところをほめてみてください」と妻に言ったら3秒くらいで終わることでしょう。いや、一言もないかも!!
好きなものは少しくらいは語れるでしょうが、もっても1時間くらいではないでしょうが。私は上原ひろみさんが好きなので多少は語れますが、一日中は無理と思います。
阿弥陀さまは昼夜一劫説いても説きつくせないそうです。阿弥陀さまもすごいですが、説かれるお釈迦さまもすごいですわ。
私なんて毎年お説教呼んでいただくお寺さんがありますが、毎年ひぃひぃ言ってます。阿弥陀さまは説いても説いても説きつくすことができないお方でありますから、なんぼでもそのお徳を語ってゆけるはずです。そのくらいでひぃひぃ言ってはいけません!
そう思いながらも毎年ひぃひぃ言ってるのです!わたし、お釈迦さまじゃないんで!
仏教を学び始めた頃、「自分に理解できない仏教がおかしいのか、仏教が理解できない自分か至らないのか、どちらかの立場にたつのかで今後が変わってきますよ。」と教えて頂きました。
私たちはついつい自分の頭ではわからないものにであった時、訳分からんしっ!と切り捨てることが多いように思います。
しかし、いや、これは分からん私が至らないんだな、何か大切なものがあるんだろうな、と受け止めてゆくことで世界が広がるのかもしれません。多くの方がよろこんでいるものだったらなおさら、そこには何かがあるのでしょうから。
音声法話「願いの中に」
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