まぁそがぁにはぶてんさんな

メインは仏教について。時々音楽や雑談もします。

苦手な人と出会ったら

いつもブログを読んでくださりありがとうございます。

このブログは仏教を通して、普段考えていることや、感じたことを書いています。

 

今回は苦手な人と出会った時に思うことです。腹が立った時、私はこのように考えて少し心を落ち着けています。

 

 

 

ブログ名の意味

このブログの名前「まぁそがぁにはぶてんさんな」というのは広島弁です。

意味は「まぁそんなに腹をたてなさんな」「そんなプリプリしなさんな」「そんなにすねるなよー」みたいな感じです。

 

はぶてる子

はぶててる子

 

いつもブログ名を見て自分に言い聞かせていています。

 

瞋恚とは

怒りの心は仏教では瞋恚(しんに)といいます。瞋恚という煩悩は自分の心や体を傷つけていきます。腹を立てることによって自分が傷ついていくと考えます。

 

自障障他とは

この娑婆の世界は自障障他といわれます。自らの幸せを自らで妨げ、他人の幸せを妨げているのです。自らの幸せを自らで妨げているとはあまり思っていませんが、それこそ瞋恚などによって幸せから離れていっているのでしょう。

 

以前【20歳までに得た幸福感を20歳以降は超えることができない】と聞いたことがあります。子供の時に経験することのなかった幸福感を大人になってから味わうと、自分自身で「こんなはずはない、俺はこんな幸せになっていい人間ではない、何か裏があるんだ!」と疑い、自分から幸せに蓋をするというのです。

 

この説を私は半分信じて半分疑っています。半分信じてますので、自分の子供には子供のうちに多くの喜びとであっておいて欲しいなと感じます。そして、半分は疑っていますので、自分で自分の幸せの限界を決めずに、幸せな時は存分にその幸せを認めてやろうとも思っています。

 

自障障他とは自分の幸せを自ら妨げ、他人の幸せも妨げていくということでした。大げさに言うと、「他人の不幸は嬉しく、他人の幸福は嬉しくない」ということでしょう。人の不幸をよろこぶ、それはそのまま自分自身も傷つけていくことになります。

 

自利利他とは

 

一方さとりの世界は自利利他といわれます。人の幸せが私の幸せ、人の苦しみは私の苦しみと、自他の分別を超えて、苦楽を共にしていく境涯です。

 

仏教は自障障他の娑婆を離れ、自利利他の悟りの境地を目指す教えです。浄土教でいえば、娑婆の命尽きたとき、浄土に生まれて仏になることを願います。

 

でも、私は娑婆が好きです。恥ずかしながらあまり悟りを目指そうという心はありません。そんな私に浄土を願えよと教えてくださる人がいます。

 

それが苦手な人です。

 

苦手な人と出会ったら

この人生どうしても苦手な人、腹の立つ人と出会う時もあります。その時腹は立つんですが、ふと「この人は私に、娑婆を厭えよ、浄土を願えよ」と教えてくれているのかなぁと思ってもみるのです。すると少し心が落ち着きます。

 

自利利他の悟りを願わない私に、娑婆の世界の苦しみを教え、この終わりのない娑婆の苦しみを抜け出し、本当の幸せの境涯、悟りを求めよ、と教えてくださっているんだなぁと思ってみると少しはぶてていた心が収まるのでした。

 

「まぁそがぁにはぶてんさんな」