本来の「縁起」の意味
おはようございます。
今日は縁起について書きたいと思います。
縁起とは
縁起とは元々仏教用語です。今は縁起が良いとか悪いとゆうような意味で使ってますが、本来はそうではありません。
縁起とは漢字の通り「縁(よ)って起こる」ということです。
空間的な縁起
空間的にはあるひとつのものが成立するには様々な縁によっているとゆうことです。例えば私が今成り立っているのは、空気や大地、友人や家族、五蘊(ものごとを構成する5つの要素)などの縁があるからです。よく生きているんではない、生かされているんだ!と聞きますが、まさにこれです。
時間的な縁起
そして時間的に様々な因や縁によって果がおこるとゆうことでもあります。例えばタネを撒くと日光や水分などの縁が整えば花が咲くことなどです。
釈尊当時のインド
ものが生じるには何かの因や条件がいります。因や縁がなくなればそのものもなくなってしまします。釈尊当時のインドは宿命論や神の意志が人間をコントロールしているように考えられていました。釈尊の縁起というのはそうではなくて、ものごとは因と縁によって成り立っているんだという画期的なものでした。
いくつかの経典には
此あるが故に彼あり。此生ずるが故に彼生ず。
此なきが故に彼なし。此滅するが故に彼滅す。
と説かれています。
AがあるからBがある。Aが生まれるからBが生まれる。
AがないからBがない。AがなくなるからBがなくなる。
ということです。
さて、AとBには何が入るでしょう!?
色々はいりますね。
A=子供 B=親
A=生徒 B=先生
A=雲 B=雨
子どもの誕生日は親が親になった誕生日でもあるんですね。
生徒がいなければ先生はあり得ません。一人で私は先生です、と言っても先生ではありません。生徒がいて初めて先生です。
縁によってものごとが生まれたり滅したりします。
言い方を変えると今の私があるのは様々なご縁があったからですし、あるからです。単独に存在できるものなんてないんですね。
隣にいる人が変われば私も変わる
また、縁が変われば私も変わるとも言えます。
私の隣に妻がいれば私は旦那です。私の隣に子どもがいれば私はお父さんです。私の隣に母がいれば私は子どもです。私の隣にライオンがいたら、私はエサです(笑)
私は付き合う人によって変わってくるんですね。親の顔もあれば子の顔もある。生徒の顔もあれば先生になるときもある。友達でもAという友達と会う時とBという友達と会う時で私のキャラは変わります。好きな友達とゆうのはその人といる時の自分も好きなんでしょうね。
ここが一番言いたい!!!3つのこと!
①大切な人がなくなるというのはその人とであっている自分もいなくなる事だと、ある先生が仰っていました。まさに縁起の法則ですね。その人の前でしか出せない自分がもう出せなくなるんですね。そういった意味でも寂しいですね。
②今自分の事が嫌でも、会う人が変われば自分も変わります。今から会う人によっては自分の事が好きになるかもしれませんね。会う人大事!
③阿弥陀さまが元々いて私が生まれたのではなく、私がいたから阿弥陀さまがいらっしゃいます。
以上