「常」と「恒」の違い
いつもブログを読んで下さって有難うございます。
今回は「常」と「恒」の違いについてです。
現在はほぼ同じ意味
どちらも「つね」と読みますし、意味も「ずっと」とか、「いつでもかわらずに」と、現在ではほぼ同じように使われています。
親鸞聖人は異なる意味で受け止められる
しかし親鸞聖人はこの二つの漢字は違うんだと仰います。
つね(恒)といふは、常の義にはあらず。常といふは、つねなること、ひまなかれといふこころなり。ときとして、たえず、ところとして、へだてず、きらわぬを、常といふなり。(一念多念文意)
というお言葉があります。
聖人の「常」の理解
「常」というのは、言葉通り、絶えることなく、暇なく、どこでも、へだてることなく、ずーーーっと。という意味だと教えて下さいます。
聖人の「恒」の理解
一方「恒」は常の義にあらず。ですから、ずーーっととゆう意味ではありません。途切れるとゆうことです。途切れ途切れになっているけど続いているとゆう意味です。
例えば恋をしたとします。好きになった当初は「常」に近いですね。常にその人のことを想います。寝てもさめても。夢の中にまで。朝起きても、お風呂入る時も、仕事してるときも。
しかし、時が経てば「恒」に近づきます。
ずっとその人のことばかり想うなんてことはなくなります。忘れているときも多くなってきますね。でも好きな気持ちは続いていますので、そうゆう場合は「恒」に想っている、となるのでしょう。
仲のいい老夫婦の話
ある仲のいいお爺さんとお婆さんがいました。お爺さんが体調を崩して病院に入院しました。お爺さんはお婆さんを想って病院で手紙を書きます。「お婆さん、無事に暮していますか?私はいつも寝る時お婆さんのことを思い出し、涙で枕を濡らしています」と。
それを受け取ったお婆さんが今度はお返事を書きます。「お爺さん、お手紙ありがとう。私はね、あなたを思い出すようなことはありません。。。。。
なぜなら、忘れることがないからです。ひと時たりとも忘れることがありませんから、わざわざ思い出すこともありません。」
イチャイチャ老夫婦ですね。勝手にやってください状態ですね。
お爺さんは寝る時思い出すんですね、これは「恒」です。
お婆さんは忘れることがないんですね。これを「常」といいます。
仏様は「常」私は「恒」
仏様のはたらきは「常」です。一瞬たりとも途切れることはありません。途切れることなく私を想い続けて、呼びつづけてくださっています。
しかし、その仏様のはたらきを受ける私たちは「恒」です。ずっと仏様のことを考えている訳ではありません。ずっと一日中途切れずお念仏したり、仏法を喜んでいる訳ではありません。お念仏も時々です。仏様のことを思い出す時も時々です。しかし、私たちの「恒」の仏道は、仏様の「常」のはたらき、呼びかけに支えられているのでしょう。
一見、パッと見は途切れているような私のお念仏の生活ですが、実は続いているとゆうのが「恒」ですね。
常なる名号法は、恒なる称名を生みます。