まぁそがぁにはぶてんさんな

メインは仏教について。時々音楽や雑談もします。

お浄土は私が願った世界ではなく、仏様が願われた世界

おはようございます!

 

お浄土は願心荘厳と言われます。願心荘厳とは、願いの心、はたらきが姿形となって現れたものとゆうことです。阿弥陀様の「苦悩の者をすくいたい」とゆう願いでできあがっているのが西方浄土です。ですので浄土のどこを切りとっても阿弥陀様の願い(ご本願)です。

 

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とゆうことはお浄土は私が願った世界ではなくて阿弥陀様が願ってくださっている世界です。

 

私が願うことといったら主にこの世のことです。この世をどのように渡っていくか、もっと稼ぎたい、褒められたい、モテたい、楽したい、あの人よりいい生活がしたい、等々。

私の願いは自分の煩悩を満たすことが中心であり、自己中心です。他人のことを願っているつもりでも本当の本当は自分のことのようです。

 

その私の姿は仏様から見たら頭下足上(ズゲソクジョウ)だそうです。頭が下で足が上になって真っ逆さまに落ちているとゆうことです。自分では結構まともに、立派に、上に上に進んでいるつもりでも、仏様からみたら一直線に落ちています。

 

まるで火山の噴火口で無邪気に遊んでいる幼児のようだと喩えられます。子供は全く危ないことに気付いてません。一歩踏み外したらそこはマグマなのに。少し風が吹いたらそこは火の海なのに。

 

一直線に地獄に落ちている日々を暮らしているにもかかわらず、全くその危なっかしさ、おそろしさに気づいていないのです。

 

親は噴火口で遊んでいる子供を見つけると、すぐさま子供の所までかけつけ、抱き抱えます。子供の方はもっと遊びたいと嫌々親に抱かれます。落ちる心配も助ける心配も親がしたのでした。

 

地獄に落てしまう心配も、助ける心配もしてくださっているのは仏様の方です。私が迷い、流転し、ひとりぼっちで生死を繰り返していることを心配し、何とかしてやりたいと願ってくださったのは仏様の方でした。

 

私の方はとゆうと、まだまだ娑婆が恋しく、やだやだ、お浄土なんか生まれたくない、仏になんてならずにもー一回人間に生まれたいよ、もっと美味しいもの食べたい、もっと楽しいこともしたいと、駄々をこねているくらいのもんです。

 

お浄土は私が願った世界ではなくて、仏様が願ってくださった世界です。

 

最後の最後、人生終わっていかねばならない時、私はしがみつくと思います。この命に、そして大切な人にしがみつくと思います。後生のことまで願う余裕はないと思います。

 

しかし、私の後生の心配をし、何とかしてやりたいと願ってくださったのは阿弥陀様の方でした。そして、もうすでに抱き抱えているから大丈夫だよ、安心して任せておくれと、私が求めるよりも先に、届き呼んでくださってあったのが南無阿弥陀仏でありました。

 

そのことを御文章では「仏の方より往生は治定せしめたまふ」(仏様の方がお浄土参りを定めてくださった)とお示しです。

 

阿弥陀様が私のことを願ってくださってある。このことに安心を感じるのでした。