普通お寺や神社にはあるけど、浄土真宗のお寺にはないものってなーんだ!?
おはようございます。
ブログを始めて1ヶ月経ちました。一日一投稿で頑張ってきましたが、いつまでもつことやら。まー無理はしないで、自己研鑽のためにやっていきます。
ないからこそすごいもの
あそこのお寺は立派な仏像があるからすごい。とか
あそこのお寺は貴重な掛軸があるからすごい。とか
立派な松があるからすごい。とか、何かがあることがすごいということは気づきやすいです。
しかし、〇〇がないからすごいというもあります。
さて、ここで問題です。
一般的に、お寺や神社には結構あるけど、浄土真宗のお寺には絶対ないものってなーんだ!?
正解は・・・
「お守り」です!
そう、浄土真宗のお寺ではお守りやお札を売ってないのです。
これは誇らしいことです。お守りを売ればお寺の財政も助かるのに、どんなに困窮しても浄土真宗のお寺はお守りを売ってこなかったのです。
浄土真宗では人間は煩悩でできあがっていると考えます。したがって、人間の煩悩から出てくる願いというのは結局自分の首を絞めていくことになると受け止めています。
西の観音 東の観音
「西の観音 東の観音」という昔話があります。(ちょっと長いですが頑張って書きます。そして、私の記憶で書いておりますので細かい所は違う所があるかと思いますが、だいたい話の流れは合ってるはず)
昔ある貧しい村に、旅の坊様がやってきました。その坊様は「村の東と西に観音さまを安置していくでな。東の観音さまはよく願いをかなえてくれるで。一方西の観音さまは願いをかなえてくれんでな。だがな、皆の者、西の観音さまを大事にするがえーぞ」と言って、東と西に観音さまを置いてまたどこへ去っていきました。
村の者は最初は坊様の言う事を聞いて西の観音さまを大事にしていましたが、何も願いをかなえてはくれませんので次第に東の観音さまにお参りにいくようになりました。
すると東の観音さまは本当によく願いを聞いてくれるのです。村人はどんどん東の観音さまにお参りをし、どんどん裕福になり、しあわせになっていきました。子どもが欲しいと思ったら子どもが生まれ、結婚したいと思ったら結婚でき、お金が欲しいと思ったらお金が手に入りました。
しかし、それだけでは物足りないのが人間です。
あっちの家はあれほどお金を持っている、あの家よりも豊かになりたいという思いが湧いてきます。人の欲望には限りがありません。人は結局比較の中でしかしあわせを感じることができません。次第に、自分のしあわせではなく、他人の不幸を願うものがでてきました。あの家は儲けすぎだ、少しは悪いことがあってもいいだろうと、願う者がでてきたのです。するとどんどんそれが広がって、それぞれがひがみあい、よその不幸を願いあい、村中がまた、貧しくなっていったのです。そして村の人々はどんどん疑心暗鬼になってしまい、以前より心も財布も貧しくなってしまったのです。
その時、またあの時の坊様がやってきました。村の人たちは口々に言いました。「私たちの村はめちゃくちゃです。助けてください。」と。
すると坊様が「あんたら西の観音さまを大事にしとるか?」村の人たちすっかり忘れていたのです。西の観音さまの存在を。
もう東の観音さまは(東の観音さまのせいではなく村人の願いのせいですが)こりごりな村人たちは、少しずつ西の観音さまにお参りをするようになりました。西の観音さまは何もかなえてはくれませんが、いつもにっこり村人たちのお話を聞かれるのでした。次第に村も平穏を取り戻り、貧しいけれど、人々が手をとりあい生活していくしあわせな村になったのでした。
人間の願いが全てかなっていってもしあわせにはならないことがよくわかる昔話です。
自分の都合で仏さまを利用しない
この仏様を信じたら成績がよくなるとか、お守りを買ったら事故をしないとか、病気にならないとか、人間関係が円満になるとか、仕事が順調にいくとか、そんな自分の都合のために仏さまを利用するのが仏教ではありません。
私の願いを仏さまに聞いてもらうのではなくて、仏さまの願いを聞いてゆくのです。そこに大きな安心が生まれてきます。
ですからお守りがないのです。
お守らない
昔、そんなことを友人と話してましたら、そうだ、だったら「お守り」ならぬ「お守らない」を作ろうじゃないかという話になりました。
しかし、だれも 買わないだろうということですぐボツになりました。