有難い人間になれとゆう話ではありません
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願生心とは
浄土教ではお浄土に生まれたいと願う「願生心」が大切とされてきました。
「願生心」がなければお浄土に生まれることはできないとされていました。
そして願生心というのは当然私が用意するものと考えるのが通常でした。
しかし、私がお浄土へ生まれたいと願うより先に、私をお浄土に生まれさせたいと願ってくださっていたのは阿弥陀様の方なんだ!と教えてくださったのが親鸞聖人や蓮如上人です。
仏のかたより往生は治定せしめたまふ。(『御文章』五帖第十通)
お浄土へは参れるのは私が願ったからではありません。阿弥陀様の方が私の後生を願ってくださり、私をお浄土に生まれさせると定めてくださったから参れるのだ、と教えてくださいます。
三河のお園さん
昔、三河にお園さんという念仏者がおられました。お園さんは和兵衛という仲間の家でよく御法義話(お念仏のおいわれのお話)をしていました。
ある時和兵衛の奥さんがお園さんに話しかけてきました。「お園さん、あなたが来られる時はいつもたくさんの方が集まって、皆嬉しそうにお念仏の話をしていますね。ところが、私はこの世のことばかりに気をとられ、後生のことなど聞きたくもありません。」と言われました。
するとお園さんが「あなたもそうですか、実は私もそうなんですよ」と返されたのです。
そして、「私も仏法は好きではないし、この世のことが大好きです。けれど、うれしいことに、この世好きで後生嫌いのものを一番気にかけて、お浄土へまいらせてくださるげなですわ。それが何より嬉しいでのう。毎日このことを話しあっているんです。」 と言われたというのです。
和兵衛の奥さんはこの一言に深く感動して、それからは御法義話に加わりお念仏よろこぶようになったそうです。
有難い人間にあれとゆう話ではありません
願生心を持って、有難い人間になったらお浄土へ参れる。そうゆう話ではないんですね。有難いとも何とも思ってないものこそが目当ての仏様が阿弥陀様です。
お念仏してゆくというのは私が有難くて賢い人間になっていくことではありません。
阿弥陀様が有難いお方だと気付かされていくのでしょう。
和兵衛の奥さんが最初に言った、「この世のことばかり気になって後生のことどころではない」これが普通の感覚かもしれません。命終わったらどうなるのかを聞くよりも、どうやったらお金が稼げるか、どうやったらこの病気が少しでもよくなるか、どうやったら人間関係がうまくいくか、どうやったら仕事がうまくいくか、どうやったら楽に暮らせるか、そうゆう事の方が興味があるのが普通なのかもしれません。
売れている本や見られている動画なども、この世をどのように生きていくかというものが中心です。
「今日のお浄土」とか「クイズ!何故輪廻する!?」とか「ニュース48!菩薩、コロナを語る」とか見た事ないです。。。もしあっても、、、別に見たくない。いや、放送があったら一回は見る。
それこそ願生心なんて中々持てるものではありません。それは命終わる間際になってもそうかもしれません。最後までこの世にしがみつき、死にたくない、もっとあれもしたかった、これもしたかった、と終わっていくしかできないかもしれない。お浄土へ生まれたいなんてこれっぽっちも思えないかもしれません。
しかし「仏のかたより往生は治定せしめたまふ」であります。
阿弥陀様の方が私をお浄土へ生まれさせたいと願ってくださり、今南無阿弥陀仏となってご一緒くださり、必ずお浄土へ生まれさせるとこの身を定めてくださっています。そこに大きな安心があります。
目次でリンクができたようなので嬉しいです。