まぁそがぁにはぶてんさんな

メインは仏教について。時々音楽や雑談もします。

全力で体調回復につとめていらっしゃる

ある議員さんが、「安部総理は全力で体調回復につとめていらっしゃる」と仰っていました。

 

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体調回復するんなら全力出しちゃダメ!

 

力抜いて、しっかり休まないと!

 

安部総理、長年お疲れ様でした。本当ゆっくり休んでいただきたいです。

 

ずっと全力で結果を追い求めやってこられたのであれば、気の緩むときもなかったのではないでしょうか。

 

今はSNSを開けばとんでもない数の非難、悪口が飛び交っています。総理ともなると政策に対する反対意見を聞くことはしなければならないと思いますが、それだけではすまず人格否定までされるような意見、投稿もすぐ目に入ってくると思われます。

 

ずつつつつつつっと人から評価され続ける人生はしんどいです。

 

政策云々とかはともあれ、本当にお疲れ様でした!

くらべず。あせらず。あきらめず。

最近響いた言葉。

 

くらべず。あせらず。あきらめず。

 

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くらべず。

人と比べる必要はないと頭で分かっていても、無意識に人と比べてしまっている自分がいます。

 

だいたい私は平均値とゆうものが嫌いです!!大っ嫌いです!!何事も最近は平均値を出しますので、それが基準になってしまうんですね。

 

子供の頃は平均身長や平均点に悩まされました。ずっと平均身長より低かったので、どうにか平均身長までは大きくなりたいと、牛乳飲んだり色々しましたけどダメでした。今はあんま気にならないですけどね。大人になったら背の順がないんでいいですね♪

 

ただ大人になっても平均値には悩まされます。平均年収、平均貯金、平均血糖値、平均尿酸値。全部平均平均平均平均!!色んな人がいていーはずなのに!平均値と比べて自分は劣っているとか優れているとか。いーじゃないですかね!色々な人間がいて。皆平均値だったら何も面白くないです。

 

人生の最後までも平均値がでてきます。そう平均寿命です。平均寿命より長生きできたら幸せで、短かったら不幸せ、みたいな空気ありますが、そんな平均値ごときで人生を評価して欲しくないです。短くたって豊かに生きた方はいるし、長くたって空しい人生だったと思う方もいるでしょう。

 

だからそもそも平均値なんて出して欲しくないのです。知ってしまったらそれにとらわれてしまうのが私(泣)

 

また、近い人と程比べてしまう性を人間は持っています。兄弟で比べたり、近所で比べたり。昔から宝くじは近い人が当たらない方が良いって言います。全然知らない人が当たっても何とも思いませんが、例えば親しい友人とか、兄弟とかが当たったらメッチャ悔しいです(笑)それ程近い人ほど比べてしまうんですね。

 

あなたはあなたの持ち分を生きているんだから、人と比べて傲慢になる必要もないし、人と比べて自分を蔑む必要もないと仏教は教えてくれます。

 

人と比べて向上心を持ったり、よしっ私も頑張ろと思うことは良いことだと思います。しかしそれが命の価値の優劣にはつながらないことをしっかり心に刻んでおきたいものです。

 

あせらず

何故人生をあせるのでしょうか?

 

それは今が手段だからではないでしょうか?

 

理想の自分があって、それになれるまでは頑張るんだと必死になります。早くその理想を叶えなきゃと必死になってあせるんですね。

 

どこどこ高校、どこどこ大学に入学したいとゆう目標があって、それに向かって頑張る。その勉強が受かるための手段になってしまいます。会社入っても、売り上げ上げるために、評価してもらうために頑張る。バズりたいために沢山SNSに投稿する。その頑張っている時は目的を叶えるための手段になってしまっています。 

 

それを繰り返しているといつまでたっても今がただの手段、道具です。未来のための投資です。

 

でも今の自分が幸せを感じることがなければ、ずっと幸せを感じることはないのではないでしょうか。幸せは手に入れるものではなく、気づくものだとゆう言葉が身にしみます。

 

あなたの今は手段、道具ですか?

 

あきらめず

一人だとあきらめてしまうのが私です。ずっと結果がでないと、思うようにいかないとあきらめてしまいがちです。

 

でもちゃんと見ていてくれる人がいる。私が私のことをあきらめても、私のことをあきらめないで見ていてくれる人がいる。そう思った時ゆっくりかもしれないけど、また頑張れそうな気がします。

 

私はここまでだ、このくらいの人間だと鷹をくくらず、自分で自分の枠を決めてしまわずにいきたいものです。

 

まとめ

くらべず。あせらず。あきらめず。

 

単純だけど、難しい。

 

どれか一つでも実行できたらいーなーと思ってます。

 

 

 

心得たと思ふは心得ぬなり。(分かったと思ったらそれは分かってないことです。)

 

 

心得たと思ふは心得ぬなり

本願寺第八代宗主蓮如上人の言行録である『蓮如上人御一代記聞書』に

 

心得たと思ふは心得ぬなり。心得ぬと思ふは心得たるなり。

というお言葉が残っております。

 

心得た!これはわかったぞ!と思ってしまったらそれは全然わかっていない。

反対にあーまだまだ分からないな、と思っている方が分かっているということですね。

 

知ってるつもりが豊かさを失う

知っているつもり、分かっているつもり、できているつもりは豊かさを失う」という言葉を目にしました。本当その通りだなぁと共感。

 

できている、分かっていると思っていることはそれ以上成長がありません。分かっているつもりになっているものに対しては当たり前になってしまっていて、何も問いがでてきません。

 

反対に分かっていないと思っていることに対してはどんどん疑問が出てきて、理解が深まり、豊かになっていきます。

 

子供はちゃんと疑問をもつ。大人は知ってるつもり

子供は疑問に思ったことは全て聞いてきます。自分は全然知らないと思っているからでしょう。そして、知らないことを恥ずかしいともなんとも思ってないからでしょう。何で空は青いの?何で働くの?何で寝るの?何で生まれてくるの?死んだらどうなるの?等々。大人の私は全然答えられません。。。大人は答えもわからないのに、そういった問いは自分の中にしまいこんでいるのでしょうか。

 

大人になって疑問が起こってこないのは、空が青いのが当たり前になっていて、働くのが当たり前になっていて、知っているつもりになっているからではないでしょうか。そして知らないこと、分からないことが恥ずかしいことだと、どこかで思ってしまっているからです。でも反対です。分かっていると思っている方が恥ずかしいことです。分かったと思った時点で試合終了です!

 

やればやるほど未熟さに気づく

私は上原ひろみさんのピアノが好きです。上原ひろみさんみたいにピアノが弾きたいといつも思っています。

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子供の頃はクラシックピアノを習っていたのですが、社会人になってからはポップスやジャズピアノも習い始めました。そしていつか上原ひろみさんのように弾きたいと思いながら練習するのですが、練習すればするほど、上原さんが遠くなっていくのです。学べば学ぶ程、上原さんのすごさが分かってきて、こりゃ自分がこの境地に達するのは無理だぁとへこむのです。

 

どの道でもそうだと思いますが、やればやるほど達人のすごさがわかりますね。やればやるほど、生きているうちに上原さんみたいなピアノが弾けるようにはなるのは無理だなぁ思うんですが、やればやるほど上原さんのピアノが身に染みてきます。聞けば聞くほど素敵です。あの息づかい、間、メロディーの美しさ、構成の緩急、どれも心に刺さります。以前は聞こえなかった音が聞こえてきます。へこみながらも、これも豊かになったってことなのかなぁとも思います。

 

最近はYoutubeとかで、素人のユーチューバーさんがプロの格闘家にスパーリングを申し込んだりしていますが、一発くらいは決めれるんではないか、とか最初は言ってますが、結局ボコボコにされてますね(笑)はたから見たらすごさってわからないんですね。おそらく格闘技をやり始めたら、やればやるほどプロの方のすごさというのが、分かるのでしょう。

 

最初は簡単にできるだろうと思っていても、どんな道もやればやるほど、達人のすごさが見えてきます。やればやるほど、できてない自分を知らされます。そして、それに近づくためにはどうやって練習していけばいいのか問いが起こってきます。その問いが大切なんですね。どうやったらこんな風に弾けるのだろう、どんな練習を重ねたらいいんだろう、と考えながらやることで、その向こうには新たな世界が広がってくるのでしょう。

 

藤井聡太棋聖のコメントからも

そういえば、藤井聡太棋聖が17歳11か月で初タイトル獲得後の会見で「探求心」という言葉を掲げながら「将棋は本当に難しいゲームで、まだまだ分からないことばかり。これからも探究心を持って盤上に向かっていきたい」とコメントされましたね。トップにまで上り詰めてもまだ、分からないことばかりと仰るなんて!まだまだすごくなっていく方なんでしょうね。「棋聖!やっぱりわかったと思ったらそこで試合終了なんですね!」

 

親鸞聖人の歩まれた仏道

親鸞聖人というお方は真剣に仏道を歩めば歩むほど、仏とはほど遠いわが身を知らされ、そして仏のはかりしれないお心にであわれ続けられたお方だったのだと思います。自分は分かった、知っているんだという賢者の立場に身をおかれず、我が身を問い続け、仏とは何かと問い続けられたのだと思います。そこに豊かな世界が広がっています。

 

心得たと思ふは心得ぬなり。

 

分かったつもりになってませんか?

物事の見方を変えてみる

私は年間2万キロくらい運転します。

数年前、隣の県まで勤務していた時は年間3万キロくらい走っていました。

走る距離が長いとそれだけ切符を切られることが多かったです。

(距離のせいではなく、単に若い頃は運転が荒かったのかもしれない)

 

スピード違反(高速で車が合流してきて、近くて危なかったから右車線から抜かそうとしたらそれが覆面だった!)、一時停止無視(これは本当に無視したので文句なし!)、信号無視(黄色でしたよ!)等々が重なりました。

 

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違反者講習の時、「早く終わらんかなー、くっそー、何でこんなに捕まったのかなぁ、運が悪かったなぁ。」と思っていました。

 

すると担当の教官が「あんたらぁ、自分のこと、切符切られて運が悪いと思ってるだろう。そーじゃない。大きい事故にならんうちに講習受けられたんだから運がいいんだよ。今日改めて勉強して、今後ちゃんと気を付けて運転しなさいよ、という天からのメッセージだからね!」と言われたのです。

 

「確かにーーーー。」

その日私は一生懸命違反者講習を受けることができたのでした。

 

この教官の一言はまさに仏教でした!今まで運が悪かったと思っていましたが、その一言で、そうか、自分はむしろ運がよかったんだと物事をとらえなおすことができました。

 

仏教は物事の新しい見方を提示してくれる教えです。悲しいとしか思えなったできごとに意味を見出せたり、苦しみが苦しみだけでは終わらない世界や物語を持つことのできる教えです。

 

過去の事実は変えることはできない。しかし過去の意味は変えることができる。

「怒るよ!」「もう怒っとるじゃん!」

こんにちは

 

先日、何回言ってもゲームをやめない息子に「いい加減にしないと怒るよ!」と言いました。

すると「もう怒っとるじゃん!」と言い返されました。

 

確かにー

 

「怒るよ!」と言っている時はもうかなり怒っている時ですね(笑)

 

「好きになるかも」と思った時はもうかなり好きですしね。

 

 

念仏もうさんとおもひたつこころのおこるとき、

すなはち摂取不捨の利益にあずけしめたまふなり(『歎異抄』第一条)

 

お念仏しようとゆう心が起こる時は、もうすでに阿弥陀さまのお救いの中でした。

お念仏していつか救われていくのではありません。

お念仏しようと思う時はもうすでに阿弥陀さまのご本願がご本願の通りに私のうえにはたらいていたということです。

 

もう阿弥陀さまの願いの中にあったんだ、阿弥陀さまがご一緒だったんだと確認させていただき、よろこぶのがお念仏です。